プレスリリース

産経新聞(1992年~1993年掲載記事)より オデッサへの旅

ウクライナのオデッサに行くため成田を発ったのは昨年の十月三日であった。
エリツィン大統領が突然訪日を中止した直後で、また、ロシアでは経済状態が逼迫し厳しい冬を控えて食料不足も懸念されていた。

訪問の目的は医療協力であったが、そういう大義名分とは別に自分の目で実際にロシアやウクライナの状況を見てみたいという強い好奇心に駆られていた。

モスクワのシェルネチボ空港に着いたのは夕方の六時過ぎであった。
入国のカウンターでさっそく、「DOyouhave Cigarettes?」と聞かれた。
少々驚きながらも、そういうものかと思い直しタバコを差し出すと、ろくにパスポートも見ないで通された。
出迎えの人を探してうろうろしていると、背中を叩かれた。
振り向くと初老の男性が 「Ishimoto to Odes-sa」と書かれたプラカードを持って立っていた。
隣にはやはり同じプラカードを持った婦人が立っていた。どうやらこの夫婦が出迎えてくれたらしい。

夕闇のモスクワ郊外を串で足りながら懸命に意思の疎通をはかろうとしたが、英語がほとんど通じないため、この夫婦が誰なのかもわからず不安であった。
一時間程で国内便の空港であるヌコバ空港に着いた。林の中の空港ビルは薄暗くて、とてもそこがCIS全土への国内便の発着地とは思えないような場所であった。
ロビーは大きな袋や鞄を持った人々でごった返していた。殺気だった雰囲気を感じながら仔んでいると、突然殴りあいのけんかが始まった。
警察官が止めに入り収まったが、衝撃的なシーンであった。

二時間の飛行で目的地のオデッサに着いたのは真夜中であった。

オデッサからの手紙
ことの発端はオデッサ小児病院のレゾニック教授からの手紙であった。
チェルノブイリ原発の事故以来白血病の患者が増えているため、臨床研修をさせて欲しいとの要望であった。
当科の助教授と以前より国際学会で知り合いであったため打診してきたのであった。
既に彼はヨーロッパの国々や日本の複数の施設にコンタクトをとつたとのことであったが、結局受け入れたのは我々の大学だけであった。

こうして昨年の一月から二カ月間、オデッサ小児病院の血液科から部長のバレンチーナ医師とビクター医師が我々の病院に研修に訪れた。
二人の東京滞在中の費用についてはいくっかの製薬会社と江戸川区医師会に援助して頂いた。

彼らの話によると、医薬品が極端に不足している上に医療機器も十分ではないため、白血病の子供の十人に一人しか助けられないとのことであった。
現在、日本や欧米諸国での小児白血病の長期生存率は約七〇%に達しており、その殆どが治癒するものと考えられている。従って、この一〇%という数字は信じがたいものであった。
研修のかたわら、どのような援助ができるのか何度も話し合った。とにかく、今一番必要なものは治療薬であることは間違いないが、とりあえずは医療技術とシステム作りを学ぶことが先決であるとの結論に達した。
二人とも一生懸命研修したが、毎日がカルチャーショックの連続であったようだ。
東京では医薬品は何でも手に入るし、検査機器も揃っている。我々には当たり前のことではあるが、彼らには夢のような世界であった。
英語の小児科と血液学の教科書を進口王したが、約三万円のその費用も彼らにとつては数年分の年収に相当するとのことであった。
最終的に残った資金で顕微鏡を買って持ち帰ることになった。

帰国に際し荷物が一杯になってしまい、アエロフロート社から重量超過で多額の追加料金を請求されそうになったが、ロシア大使館から人道的援助であるとの証明書を貰い、ことなきを得た。
オデッサ小児病院
オデッサは黒海に面した美しい港町である。
小児病院は六百床のベッド数を持つこの地方の中心的な病院であり、血液科には約四十人の白血病を中心とする子供たちが入院していた。
白血病の患者は年々増えており、今年も十月までに二十例の新患の入院があったとのことであった。

私が滞在した僅か一週間の間にも三人の白血病の子供が入院してきたが、二人は再発例であり、既に肝臓や牌臓が大きく腫れ、進行した状態であった。
バレンチーナ部長と相談しながらできる限り患者を診て治療方針を立てたいと考えたが、なかなかうまくゆかない。彼女自身が患者数が多いこともあって各症例の状態やデータを十分把握できないようであった。特殊な難治性の白血病患者がいるとのことで相談を受けた。
既に四年間再発もなく経過しているが、いつまで治療したらよいかとの質問であった。
しかし、十分な薬もない状況で長期生存しているのは信じ難く、診断の根拠となった血液標本を見せてもらうことになった。

血液検査室にあったのは単眼の顕微鏡であった。覗いてみたが光量が弱くよく見えない。何と光は窓からの自然光であった。
だんだん絶望的な気持ちになりながら、「あの東京から持って帰ってきた顕微鏡はどうしたの?」と、ついつい大きな声を出してしまった。
「あれは盗まれるといけないので別の部屋に鍵を掛けてしまってみる。」という。
それでは何のために苦労して持ち帰ったのかわからない。
結局、標本をその顕微鏡で見たが、今度は標本がひどくて診断に堪えられるものではなかった。

ある日、キエフから子供が神経芽腫という小児焙で闘病中であるという父親がやって来た。
この病院で診断されて、今は放射線泊療を受けるためにキエフに行っているという。
いろいろ相談に乗っているうちに、モスクワで出迎えてくれた夫婦はこの人の親戚であることがわかった。やっと、あの親切な夫婦の正体がわかり納得したものであった。

三日目には予定していた白血病の講義を行った。百人程の学生と医師が聴衆であった。
居眠りされるのではと心配していたが、私の下手な英語にすっかり慣れているビクター医師の通訳のおかげでみんな熱心に耳を傾けてくれ、何とかわかってくれたようであった。
私が強調したかったのは子供の白血病の多くは今や治る病気であり、必要な薬さえあれば子供たちは救えるということであった。
講義を聴いた学生たちが喜んでくれたのは本当に嬉しかった。
これから医師になる若い人達に夢を持って欲しいというのが、私の最大の願いであったが、少しは役に立てたと思っている。

ビクター医師によれば東京に行く前は親に話をするとき「あなたのお子さんは白血病です。残念ながら治る希望は余りありません。仕方がないのです。」と目も見ずに話していたという。
こういう状況は親だけでなく医師も本当に辛いものである。
どうせ治らないのならと治療の途中で子供を連れて帰る親も多かったらしい。
「しかし、東京で確かに治っている子をたくさん見たし、条件さえ揃えば我々でも治せることがわかった。」親に対しても「希望はある。」と話せるようになったし、親の反応も以前とは違うとのことであった。
ポーランドはミニアメリカ
夜はバレンチーナ医師とビクター医師が交互に家に招いてくれて心温まる接待を受けた。二日目の夜はビクター医師の家で夕食を御馳走になった。
彼には医学部の学生である十八歳の息子と一歳になったばかりの可愛い女の子がいた。
驚いたことに奥さんはこの小さな子を残して二日後にはポーランドに出稼ぎに行くという。
深刻な話であるが二人とも何ということはないという態度であった。さらに驚いたことに出発を間近かに控えているのにもかかわらず列車の切符が手に入らないという。
ブラックマーケットに頼んであるので出発までにはたぶん手に入るとのことであった。
こうして彼女は二日後にはいなくなってしまった。

オデッサにいる間、このブラックマーケットという言葉を何度も耳にした。
あれだけ不足している薬もお金さえ出せばブラックマーケットで手に入るという。
考えてみれば旧ソ連時代に散々蹟潤した国が今や経済的には憧れの国となってしまっているのである。

ある時、オデッサの港を見下ろす高台を散歩しながらビクター医師が言った。
「いいかい、例えばあの港で働いている労働者が一日中座ってタバコをふかしていても、逆に一日中一生懸命働いても給料は同じなんだよ。なにせ平等なのだから。誰が真面目に働くと思う?」
長く続いた共産主義社会とは、わかりやすく言えばそういう社会だったのである。
教師の給料が最も安く、その次が医者で、炭坑や石油関連の労働者の収入が数倍多いといぅ社会でもあった。
この国では教育や医療が最も軽んじられてきたわけであり、その結果は私が見た医療現場にそのまま現れていた。
ウクライナの大地
あっという間の一週間であった。私はこの後ドイツで開かれる学会に出席する予定になっていた。
キエフまではビクター医師が車で送ってくれることになった。出発の朝、病院の車で若い運転手と共にアパートまで迎えに釆てくれた。
荷物をトランクに入れようとすると、ガソリンを入れたポリバケツで一杯であった。
キエフまでは往復1,000kmぁり、途中でガソリンの補給は難しいとのことであった。

朝八時過ぎにオデッサを出発し、ひたすらウクライナの平原を走り続けた。黒々とした豊かな大地がどこまでも続いていた。
(平成4年 産経新聞掲載記事)