プレスリリース

海外と日本の医療事情アーカイブ

ウクライナのオデッサに行くため成田を発ったのは昨年の十月三日であった。
エリツィン大統領が突然訪日を中止した直後で、また、ロシアでは経済状態が逼迫し厳しい冬を控えて食料不足も懸念されていた。

訪問の目的は医療協力であったが、そういう大義名分とは別に自分の目で実際にロシアやウクライナの状況を見てみたいという強い好奇心に駆られていた。

モスクワのシェルネチボ空港に着いたのは夕方の六時過ぎであった。
入国のカウンターでさっそく、「DOyouhave Cigarettes?」と聞かれた。
少々驚きながらも、そういうものかと思い直しタバコを差し出すと、ろくにパスポートも見ないで通された。
出迎えの人を探してうろうろしていると、背中を叩かれた。
振り向くと初老の男性が 「Ishimoto to Odes-sa」と書かれたプラカードを持って立っていた。
隣にはやはり同じプラカードを持った婦人が立っていた。どうやらこの夫婦が出迎えてくれたらしい。

夕闇のモスクワ郊外を串で足りながら懸命に意思の疎通をはかろうとしたが、英語がほとんど通じないため、この夫婦が誰なのかもわからず不安であった。
一時間程で国内便の空港であるヌコバ空港に着いた。林の中の空港ビルは薄暗くて、とてもそこがCIS全土への国内便の発着地とは思えないような場所であった。
ロビーは大きな袋や鞄を持った人々でごった返していた。殺気だった雰囲気を感じながら仔んでいると、突然殴りあいのけんかが始まった。
警察官が止めに入り収まったが、衝撃的なシーンであった。

二時間の飛行で目的地のオデッサに着いたのは真夜中であった。

オデッサからの手紙
ことの発端はオデッサ小児病院のレゾニック教授からの手紙であった。
チェルノブイリ原発の事故以来白血病の患者が増えているため、臨床研修をさせて欲しいとの要望であった。
当科の助教授と以前より国際学会で知り合いであったため打診してきたのであった。
既に彼はヨーロッパの国々や日本の複数の施設にコンタクトをとつたとのことであったが、結局受け入れたのは我々の大学だけであった。

こうして昨年の一月から二カ月間、オデッサ小児病院の血液科から部長のバレンチーナ医師とビクター医師が我々の病院に研修に訪れた。
二人の東京滞在中の費用についてはいくっかの製薬会社と江戸川区医師会に援助して頂いた。

彼らの話によると、医薬品が極端に不足している上に医療機器も十分ではないため、白血病の子供の十人に一人しか助けられないとのことであった。
現在、日本や欧米諸国での小児白血病の長期生存率は約七〇%に達しており、その殆どが治癒するものと考えられている。従って、この一〇%という数字は信じがたいものであった。
研修のかたわら、どのような援助ができるのか何度も話し合った。とにかく、今一番必要なものは治療薬であることは間違いないが、とりあえずは医療技術とシステム作りを学ぶことが先決であるとの結論に達した。
二人とも一生懸命研修したが、毎日がカルチャーショックの連続であったようだ。
東京では医薬品は何でも手に入るし、検査機器も揃っている。我々には当たり前のことではあるが、彼らには夢のような世界であった。
英語の小児科と血液学の教科書を進口王したが、約三万円のその費用も彼らにとつては数年分の年収に相当するとのことであった。
最終的に残った資金で顕微鏡を買って持ち帰ることになった。

帰国に際し荷物が一杯になってしまい、アエロフロート社から重量超過で多額の追加料金を請求されそうになったが、ロシア大使館から人道的援助であるとの証明書を貰い、ことなきを得た。
オデッサ小児病院
オデッサは黒海に面した美しい港町である。
小児病院は六百床のベッド数を持つこの地方の中心的な病院であり、血液科には約四十人の白血病を中心とする子供たちが入院していた。
白血病の患者は年々増えており、今年も十月までに二十例の新患の入院があったとのことであった。

私が滞在した僅か一週間の間にも三人の白血病の子供が入院してきたが、二人は再発例であり、既に肝臓や牌臓が大きく腫れ、進行した状態であった。
バレンチーナ部長と相談しながらできる限り患者を診て治療方針を立てたいと考えたが、なかなかうまくゆかない。彼女自身が患者数が多いこともあって各症例の状態やデータを十分把握できないようであった。特殊な難治性の白血病患者がいるとのことで相談を受けた。
既に四年間再発もなく経過しているが、いつまで治療したらよいかとの質問であった。
しかし、十分な薬もない状況で長期生存しているのは信じ難く、診断の根拠となった血液標本を見せてもらうことになった。

血液検査室にあったのは単眼の顕微鏡であった。覗いてみたが光量が弱くよく見えない。何と光は窓からの自然光であった。
だんだん絶望的な気持ちになりながら、「あの東京から持って帰ってきた顕微鏡はどうしたの?」と、ついつい大きな声を出してしまった。
「あれは盗まれるといけないので別の部屋に鍵を掛けてしまってみる。」という。
それでは何のために苦労して持ち帰ったのかわからない。
結局、標本をその顕微鏡で見たが、今度は標本がひどくて診断に堪えられるものではなかった。

ある日、キエフから子供が神経芽腫という小児焙で闘病中であるという父親がやって来た。
この病院で診断されて、今は放射線泊療を受けるためにキエフに行っているという。
いろいろ相談に乗っているうちに、モスクワで出迎えてくれた夫婦はこの人の親戚であることがわかった。やっと、あの親切な夫婦の正体がわかり納得したものであった。

三日目には予定していた白血病の講義を行った。百人程の学生と医師が聴衆であった。
居眠りされるのではと心配していたが、私の下手な英語にすっかり慣れているビクター医師の通訳のおかげでみんな熱心に耳を傾けてくれ、何とかわかってくれたようであった。
私が強調したかったのは子供の白血病の多くは今や治る病気であり、必要な薬さえあれば子供たちは救えるということであった。
講義を聴いた学生たちが喜んでくれたのは本当に嬉しかった。
これから医師になる若い人達に夢を持って欲しいというのが、私の最大の願いであったが、少しは役に立てたと思っている。

ビクター医師によれば東京に行く前は親に話をするとき「あなたのお子さんは白血病です。残念ながら治る希望は余りありません。仕方がないのです。」と目も見ずに話していたという。
こういう状況は親だけでなく医師も本当に辛いものである。
どうせ治らないのならと治療の途中で子供を連れて帰る親も多かったらしい。
「しかし、東京で確かに治っている子をたくさん見たし、条件さえ揃えば我々でも治せることがわかった。」親に対しても「希望はある。」と話せるようになったし、親の反応も以前とは違うとのことであった。
ポーランドはミニアメリカ
夜はバレンチーナ医師とビクター医師が交互に家に招いてくれて心温まる接待を受けた。二日目の夜はビクター医師の家で夕食を御馳走になった。
彼には医学部の学生である十八歳の息子と一歳になったばかりの可愛い女の子がいた。
驚いたことに奥さんはこの小さな子を残して二日後にはポーランドに出稼ぎに行くという。
深刻な話であるが二人とも何ということはないという態度であった。さらに驚いたことに出発を間近かに控えているのにもかかわらず列車の切符が手に入らないという。
ブラックマーケットに頼んであるので出発までにはたぶん手に入るとのことであった。
こうして彼女は二日後にはいなくなってしまった。

オデッサにいる間、このブラックマーケットという言葉を何度も耳にした。
あれだけ不足している薬もお金さえ出せばブラックマーケットで手に入るという。
考えてみれば旧ソ連時代に散々蹟潤した国が今や経済的には憧れの国となってしまっているのである。

ある時、オデッサの港を見下ろす高台を散歩しながらビクター医師が言った。
「いいかい、例えばあの港で働いている労働者が一日中座ってタバコをふかしていても、逆に一日中一生懸命働いても給料は同じなんだよ。なにせ平等なのだから。誰が真面目に働くと思う?」
長く続いた共産主義社会とは、わかりやすく言えばそういう社会だったのである。
教師の給料が最も安く、その次が医者で、炭坑や石油関連の労働者の収入が数倍多いといぅ社会でもあった。
この国では教育や医療が最も軽んじられてきたわけであり、その結果は私が見た医療現場にそのまま現れていた。
ウクライナの大地
あっという間の一週間であった。私はこの後ドイツで開かれる学会に出席する予定になっていた。
キエフまではビクター医師が車で送ってくれることになった。出発の朝、病院の車で若い運転手と共にアパートまで迎えに釆てくれた。
荷物をトランクに入れようとすると、ガソリンを入れたポリバケツで一杯であった。
キエフまでは往復1,000kmぁり、途中でガソリンの補給は難しいとのことであった。

朝八時過ぎにオデッサを出発し、ひたすらウクライナの平原を走り続けた。黒々とした豊かな大地がどこまでも続いていた。
(平成4年 産経新聞掲載記事)
明日(3日)からウクライナ(CIS)のオデッサへに行く。
私の専門は小児血液腫瘍(しゅよう)学で、子供の白血病や固形癌(がん)の診療と研究をしている。
今年初め、私と同じ分野を担当するオデッサ小児病院の専門医二人が来日し、私たちの病院で研修した。
チェルノブイリ原発事故以来、白血病が増えている-という援助要請を受けたものだった。

現在、日本や欧米諸国での小児白血病、特にその多くを占める急性リンパ性白血病患者の長期生存率は70~80%。多くは治癒すると考えられている。
しかし、医療品が絶対的に不足している向こうでは、十人に一人しか助けられないという。
オデッサは黒海に面した貿易港だが、病気の子が外国に行く船員に薬を頼むこともあるそうだ。
さらに、われわれは簡単に世界中の最新医療情報を得られるが、彼らはモスクワまで出向かなければならない。
治療成績を良くするには医療品や医療器具に加え、充実した看護や検査の態勢が不可欠だが、そのいづれもが不十分だ。
日本で新しい治療方法を学んだ彼らにとって、オデッサに戻ってからの診療はかえって辛いものになっているかもしれない・・・。
が、研修中、彼らの一人は言った。
「小児科医になったことを後悔してはいない」
互いの間に横たわるすべてのギャップを埋める言葉だった。
小児科は、我が国の医学生に最も不人気な科の一つとなってしまった。
小児人口の減少や手間と苦労の割に経済的に恵まれないことが大きな理由である。けれど、私は小児科学は夢のある学問であると信じている。
オデッサでは学生の講義も担当する。若い人たちに夢を持ってもらうこと。それがスタートと考えている。
(平成4年10月2日 産経新聞掲載記事)
ウクライナでの一週間の滞在を終え、小児がんの国際学会に出席するため、ドイツに向かった。
機内で久しぶりに新聞を手にした。「子供たちを救え」と題した記事に目。がいくユーゴスラビア紛争の話であった。
ユニセフ(国際児童基金)の報告では、今冬、百二十万人の子供たちが飢えと寒さで死に直面するだろう-と伝えている。
この数字は日本で一年間に生まれる子供の数に相当する。一九八四年に冬季オリンピックが開かれたサラエボではクリスマスまでに5,6mの積雪で、全ての道路と空港は閉ざされると予測されている。
驚いたことに、ドイツでの今回の学会には世界中の発展途上国から百五十人を超す医師が招待されていた。
地球上の全ての子供たちが近年の小児がん研究の進歩の恩恵を受ける権利があるとの考えに立ったものである。

アフリカや南米の医師とも話す機会があった。ペルーの医師に「薬はありますか」とたずねると、「薬はあるが、高くて医療費を払えない親が多い」との返事だった。
ウクライナでは、医療費は無料だが、薬がなかった。結局、状況は同じである。

実は、ウクライナのオデッサ小児病院の教授から、学会で会うヨーロッパの医師たちに援助の依頼をしてほしいと頼まれていた。
今回の学会の主催者であるハノーバー大学のリーム教授に、それを伝えたところ、急に険しい表情になった。
「われわれは旧東ドイツをはじめ、ユーゴスラビアにも多額の援助をしている。もちろん、旧ソビエトのめんどうも見ている。大変なんだ。日本は金持ちじゃないか。君たちももっと頑張ってほしい」
厳しい返事だった。
はからずもドイツが背負っている負担の大きさを知らされた。
(平成4年11月13日 産経新聞掲載記事)
宮崎から結婚式の案内状が届いた。三年前まで小児科病棟で働いていた看護婦さんからであった。

大学病院で働いている看護婦さんの多くは二十歳代前半の、やさしく意欲にあふれた女性たちである。
小児病棟では、仕事が終わった後も、子供たちの遊び相手になったり、親の話相手になっている姿をよく見かける。

その彼女たちが休みの日には、寮でひたすら寝ているという話をよく聞く。疲れているのである。
彼女たちは日勤、夜勤、深夜と三交代の勤務をこなしている。深夜とは午前零時から翌朝までの勤務であるが、この仕事が二日から三日ごとに回ってくる。
不規則な生活ときつい労働に、さしもの若い体力にも限界を感じ、平均三年ぐらいで職場を去ってゆく。

彼女たちは、できるだけ長く患者さんのそばにいて世話をし、話相手になってあげたいと願っている。しかし、皮肉にも、最近の医療の進歩は、彼女たちをベッドサイドから遠ざける方向にある。
患者さんの周りには、たくさんの機械やモニターが置かれ、時には何本ものチューブが入れられる。
その管理も仕事のうちである。

結果的に本来の願いが遂げられず、フラストレーションがたまり、肉体ばかりか、精神的にも疲れてしまう。
看護婦不足が叫ばれて久しく、「夜勤を減らし、給料を上げるべきである」等々が提言されている。
もちろん、早急に対策を打つべきであるが同時にもっと大切なことは、みんなが彼女たちを大切に思い、尊敬することであろう。

宮崎の彼女は酪農家の青年に嫁ぐという。
手紙は「人と動物の違いはあるけれど、同じ生き物が相手ですし、今からとても楽しみです。新たな気持ちで頑張ります」と結ばれていた。
(平成4年12月4日 産経新聞掲載記事)

小さな命の危機に

二年前の十二月二十九日のことだった。年内の仕事を済ませ、久しぶりに家でのんびりしていた午後、電話が鳴った。
関連の病院に白血病の疑いがある子供が緊急入院し、今から救急車で送られてくるという。
困ったことに、病院は年末の休日体制に入っており、十分な検査ができない。
血液検査室の主任に電話し、若い人の応援をお願いしたところ、彼女は遠方に住んでいるにもかかわらず、即座に「わたしも行きます」と返事してくれた。
われわれが、その三歳の患者に会ったのは夕方だった。
貧血が強く、ぐったりしてベッドに横たわっていた。
直ちに骨髄検査を含めた詳しい検査にとりかかり、夜遅くすべての結果が出そろった。急性リンパ性白血病だった。
母親は妊娠中であり、お腹の赤ちゃんのことを考え、病名を告げるかどうか迷った。幸い白血病の中でも治癒が期待できるタイプであったため、父親と相談のうえ、母親にも正直に説明した。
しっかり受け止めてくれて、「頑張る」との答えであった。

実は、ちょうどその一年前にも、同じようなケースがあった。
白血病で入院してきた少年の母親は、やはり妊娠中だった。幸い、治療は成功し、同時に母親は元気な赤ちゃんを出産した。そのお母さんにも応援をお願いしたところ、すぐに病棟にかけつけてくれ、"先輩"としてアドバイスし、励ましてくれた。
新しい命を感じながら、一方でもう一つの大切な命が危機にさらされていた。

あれから二年。五歳になった少年は、だれよりも元気に外で一日中遊び回っている。外来にはあの後に生まれたかわいい妹とやってくる。治療もこの暮れにすべて終了する。
今年の暮れこそ、何もないことを祈っている。
(平成4年12月25日 産経新聞掲載記事)
若い先生たちは大学病院の他に関連病院の当直もノルマになっているため、最低週一回、多いときは二、三回の当直が回ってくる。
卒業後五年目になるA先生のある日の当直日誌から-。


≪その日は千葉県のある病院の当直であった。少々疲れ気味であったので、心の中ではあまり患者が来ないことを願っていた。九時ごろまでに風邪による発熱患者を二人みて、十一時過ぎにはベッドに入っていた。
夢の中で電話のベルを聞いて、目が覚めたのは午前二時過ぎであった。
救急車で六ヶ月の赤ちゃんが運ばれてきていた。
途方にくれた顔をした若い母親が赤ちゃんを抱いて診察室に入ってきた。
火がついたように泣きはじめ、止まらないとのことであったが、既に赤ん坊は泣きやみ、スヤスヤと眠っていた。一応診察し、特に異常がないことを伝えると、申し訳なさそうに両親は帰って行った。

イライラしながらも仕方ないと言い聞かせ、再びベッドに横になった。
しかし、なかなか寝つかれず、うとうとしているうちに再び電話のベルが鳴った。

今度は十ヶ月の赤ん坊が吐いて、血便も出ているという。腸重積であった。
この病気は腸が腸の中に入り込み、腸閉塞をきたし、手遅れになると手術しなければならない重大な救急疾患である。

赤ん坊は腹痛のため激しく泣き叫んでいる。 悪戦苦闘の末に、レントゲンテレビに腸閉塞が解除された様子が映し出された。
途端に赤ん坊は泣きやみ、間もなく安らかな顔をして眠ってしまった。
すべてが終わったころには夜も白みはじめていた。
大学での仕事が待っているため、八時半には常勤の先生と交代して電車に飛び乗った。体は綿のように疲れていたが、ちょっぴり幸せな気分であった≫
(平成5年2月19日 産経新聞掲載記事)

小児医療の重要性

今年も新卒のドクターを迎える季節がきた。
今年私たちの大学病院に就職したのは百四人のドクターであり、そのうち小児科を専攻したのは、わずか四人であった。

私が医者になったのは昭和五十三年であるが、当時は小児科も結構人気があり、入局者が十人を越す年もまれではなかった。
しかし最近、小児科の人気は落ちる一方であり入局者がいない大学さえあると伝えられている。
理由は苦労が多い割に経済的に恵まれないことに加え、最近の出生数の減少にあるようである。
経済理論的にいえば構造不況ということであろうか。

実際、子供の数が年々減っていることは事実である。
出生数をみてみると昭和二十年代前半のいわゆるベビーブームの時代は毎年約二百七十万人の赤ん坊が生まれていたが、昭和五十年に二百万を切ってからはさらに減り続け、昨年は約百二十万人となってしまった。 このまま子供が減り続けると生活さえ脅かされるのではないかというのが小児科医の本音である。

小児科診療は救急疾患が多く、当直していて最も忙しいのも小児科である。ほとんど眠れないこともまれではない。
現場で働いているわれわれにしてみれば小児科医が多すぎるという実感はない。
子供の泣き声ひとつで病気の種類や重症度まで診断したり、糸のように細い赤ん坊の血管に一発で点滴を入れたりする小児科医の特殊技術に対する報酬ももう少し考慮されてもいいのではないだろうか。

しかし、不満た不安を抱きながらも元気になった子供たちの姿を見て、心底喜びを感じて働いているのも小児科医である。
高齢化社会の到来が叫ばれて久しいが、高齢者を支えてゆかねばならないのが今の子供たちである。
小児科医療の重要性は決して変わらないと思うがいかがであろうか。
(平成5年6月4日 産経新聞掲載記事)
大学病院のスタッフの仕事のひとつに学生の教育がある。教室での講義以上に重要なのがベッドサイドでの実習である。最終学年の六年生になると指導医の下で実際に患者さんを診ることになる。

教える医師は忙しい診療のかたわら指導にあたるので大変であるが、一方で学生との交流が楽しくもあり、逆に教えられることもある。
学生にとっては生の患者さんを通しての勉強であると同時に、この時診た患者さんや指導してくれた医師により将来選択する科が決まることもあり、重要な意味を持つ。
私自身も実習で小児科を回った際、受け持った白血病の子供との出会いがきっかけで進路を決めたいきさつがある。

ある時教えた女子学生は印象的であった。私の外来を見学した際、受診した患者さんひとりひとりに心から「お大事にして下さい」とお見舞いを言っていた。
当たり前のことだが、最近なかなかこういう若者はいない。感心して小児科に来る気はないかと誘ってみた。
「私はがんになった子供たちがかわいそうで今の仕事を始めた」と話をすると、彼女は「病気の子供は確かにかわいそうだが、両親や祖父母が一生懸命面倒をみてくれます。
けれど病気になった大人はもっとかわいそうだと思います。
お酒を飲みすぎて肝臓を悪くする。
たばこを吸って肺がんになる。
自分の責任だから仕方ないと冷たく言う医師もいるけれど、私はそうは思わない。
この人たちはみじめな思いで病気と闘わねばならない。
そういう人のために役立てる医師になりたい」と言った。
優しさにあふれる言葉であった。

彼女は現在、内科医として頑張っている。いつまでも、あの時の気持ちを忘れないでほしい。
(平成5年6月25日 産経新聞掲載記事)
最近アメリカの有名な医学雑誌に、小児の急性リンパ性白血病の過去三十年間の治療成績が発表された。
その論文では一九六〇年代初頭から現在までを四つの時代に分類し、それぞれの治療成績を報告している。
初期の長期生存率は一〇%であったが、時代とともに三五%、五〇%と上昇し、最近は七〇%に達している。

わが国での治療成績も同様に改善している。
この飛躍的な治療成績の向上は、もちろん新しい抗がん剤が開発されたことによるが、ほかにグループスタディーと呼ばれる多施設間の共同研究に負うところが大きい。
白血病を代表とする小児がんは成人のがんと比べ頻度が少ないため、単一の施設での少数の治療経験では分からない点も多い。
そこでなるべく多くの施設や病院の医師が集まり統一した治療法で患者の治療にあたり、その成績を検討することで、より有効な治療法が開発されてきた。

こうしたグループスタディーを通して、診断時の白血球数が多い患者、乳児や十歳以上の年長児は再発しやすいこと、また白血病細胞の種類により治療に対する反応性が異なることなどが明らかにされた。
これら予後因子に基づき、それぞれの患者に合った治療が行われるようになった。
すなわち診断時予後良好と予測される患者には副作用を考慮して必要最小限の治療を行い、予後不良な患者にはより強力な治療が行われる。

当面の目標はこの予後不良な患者をいかに救うかであるが、同時に予後良好な患者は晩期障害を残すことなく治療することも重要である。
白血病を克服した子供たちがどんどん成人に達し始めている。

患者を救うのみでなく、できるだけ正常に発育させることも常に考えて治療してゆかねばならない時代に来ている。
(平成5年11月12日 産経新聞掲載記事)
大学病院には医師や看護婦をはじめ、薬剤師、検査技師、レントゲン技師、ソシアルワーカーや事務職員などさまざまなスタッフがいる。
その役割上、高度専門医療を担っており、精密医療機械やコンピューターがたくさん導入されているが、何といっても必要なのは人手である。

ところで、この大勢のスタッフの中で無給で働いている若い医師たちがいるのをご存じだろうか。
ストレートに医学部を卒業しても、医師となるのは二十四歳。その後二年間の研修医を経て、関連病院を回りながら臨床医としての経験を積む。
大学に戻って、診療を行いながら学位取得のため専門の研究を行う。早くて三十歳前後で博士号を取るのが一般的なコースであろう。

各医局には教授を筆頭に助教授、講師、助手と呼ばれるポストがある。
定員が決まっており、多くの医師を抱える医局では助手の順番がなかなか回ってこないため、無給で働かざるを得ない医師もいる。
こうした若手の無給医師が意外と多いのである。彼らとて生活がかかっており、関連の病院でアルバイトをして生計を立てている。

A先生は今春から多くの重症患者を受け持ち、日曜も夏休みもない働きぶりであった。
九月に三十二歳で助手になり、先日生まれて初めてのボーナスを手にして感激にひたっていた。

また、今年三十一歳になったB先生は朝早くから夜遅くまで診療にあたる働き頭であるが、もうしばらくは無給が続きそうである。

彼らは臨床経験もある程度積んでおり、若くて体力がある。そして何より、情熱にあふれている。日本の大学病院の医療の一翼はこうした若い医師たちの情熱に支えられていることを、ぜひ知っていただきたい。
(平成5年12月24日 産経新聞掲載記事)